『結納金は猫一匹』 第1章 (1−5) | 『幻の旅路』大湾節子のブログ

『結納金は猫一匹』 第1章 (1−5)

1 結婚式当日   1989年6月28日
 
私とデイビットの結婚式の主客は老いた雄猫のモルティモアだった。
私には一番苦手なRと Lが入った舌を噛(か)みそうな名前の猫が、二人の仲人役をかってくれて、何とか挙式までこぎつけることができた。
そんな訳でこの黒猫には大いに感謝しているのだが、猫のことで彼と「別れる、別れない」と言って、どのくらい口論したか分からない。

この雄猫はもともと彼の猫で私と一緒に住みだしてから、まだ一年余りしか経っていない。
でもその前の一年間はさんざん苦労した。

実は私がそうさせてしまったのだが、その時の話は後から順を追って話すことにしよう。
今でも思い出すと、猫好きの人には耐えられない動物虐待(ぎゃくたい)物語だから、後にしたほうがよさそうだ。

それよりも楽しい話からスタートしよう。
式は、私が十年来住んでいるデュープレックス・アパートのリビングルームで挙げた。

参加者は、二十四才の時に渡米して以来親代わりを務めてくれている二世のミスター石川、デイビットの唯一の友人ニック、私たちを引き合わせてくれたバイオリンの先生のひろみさん、式を司る日系の若いお坊さん、それに先ほど紹介したモルティモア。四人プラス一匹のささやかな結婚式だった。
 
式の進め方はすべて私たち流にした。
まず結婚式の一番ハイライトと思われる新郎新婦の指輪交換を省(はぶ)いてしまった。
というのは、私は昔から宝石に興味がなかった。
時間があると、庭仕事をしたり、指先で何か作っていたりするから、指輪などつけると邪魔になるだけだった。
しかも私の指ときたら、人前で見せられないくらい関節がゴツゴツ出ていて、指輪なんて全然似合わない。
 
そんな理由もあったけれど、その時のデイビットの貯金残額を聞いたら、千ドルにも満たないという。
それで指輪は「いらないわ」ということになった。

それよりも私は旅が大好きだったから、少しでもお金があれば、そのお金でどこか一緒に出かけた方がどんなに楽しいだろうと思われた。そんな訳で私たちは指輪交換をしなかった。

結婚して二十年以上経った今、指輪を買うお金がない訳ではないが、今さら欲しいとも思わない。
第一、指輪を持ったからといって、私たちの結婚の「質」が変わるとも思わない。

さて次に省略したのはウエディングケーキだった。
これも結婚式には絶対つき物だが、超一流のケーキ屋さんに頼んで作った物でもなければ、味も余り期待できない。
確かに見かけは綺麗だが、前日に作られてボサボサになったスポンジケーキの上に、油が浮いたようなクリームが載っているウエディングケーキは、正直言ってどうも頂けない。

それよりもかかりつけの和菓子屋さんに、初夏にふさわしい水菓子をオーダーしてあつらえたらどうだろうか。見た目も上品で、こちらの方が私たちの口にずっと合っている。

部屋に飾る花も近くの花屋から白いバラの蕾を二ダース買ってきて自分で生けた。
新婦の髪も美容院など行かずにいつものようにホットカーラーでセットし、イミテーションの真珠のピンを頭の両脇に付け簡単にまとめた。

ウエディングドレスは十年前に買った光沢のある白いロングドレスがあったので、これで代用することにした。
久しぶりに着てみたらウエストの辺りがきつかったが、式の前に義母を訪問したら、気疲れで痩せて帰ってきた。それで式の当日にはちょうどいいサイズになって、ぴったり合った。

一方新郎は、今まで一度も袖を通したことのない一張羅(いっちょうら)の紺の背広を着込んで式に参列した。
アメリカで売っている上着は、形を崩さないために胸や腰のポケットはミシンで縫い込んであるものらしい。そんなことは知らないし、胸ポケットにハンケチを飾るしきたりなどもすっかり忘れていた私は、糸も抜かずにそのまま彼に着せてしまった。

後から写真を見て、胸ポケットから白ハンケチが顔を出していないのに気がついた。
そういえばそんな習慣があったのかと思い出したが遅過ぎる。
私たちは世間のしきたりや習慣にとても疎(うと)い生活をしていたから、誰でも知っているようなポケットチーフさえ気が回らなかったのである。

日系のお坊さんは誓いの言葉を英語で読んでくれた。
その中に「妻は夫に従うべきである」という一文がある。
頭の上だけかもしれないが、男女平等を信じているデイビットが「この箇所は抜かそうよ」と言い出した。
そんな一文があることは全く知らなかったが、この提案には大賛成だった。

今でも彼は自分から言い出したことを覚えているかどうか分からない。
しかし私はこの時に誓った言葉をしっかり覚えていて、今なお実行している。
だから二人の間で衝突が絶えないのは、そのせいかもしれない。

誓いの言葉の後は仏式に三三九度をして、ささやかな式はとどこおりなく行われた。友人が巻き寿司などの手料理を用意してくれていたので楽しく食べた。ハネムーンはサンタバーバラ。でもこれには事情があって二年前に行っていた。
 
色々なところを省略したり代用したりと型破りな結婚式だったが、私たちにはふさわしい式を挙げて、晴れて二人は夫婦となった。
こんな質素な式でも一応形を踏むと心も改まり、責任感もでてくるものだ。

それにしても二年前の出会いから、モルティモアのことも含めて、色々なことがあった。よくここまでこぎつけたと思うと感無量である。


2 ブラインド・デイト   1987年2月14日
      
私がデイビットに正式に出会ったのはバレンタインの日だった。
「正式に」というのはバイオリンの先生ひろみさんの紹介だったからだ。

実はその前に一度会っていた。
彼女の家で開かれたホームコンサートで、ひどく分厚い眼鏡をかけ、やや猫背で背が高く、体の線が細い中年男性にすれ違った。
彼の雰囲気から多分チェロでも弾くひろみさんの音楽仲間だろうと勝手に憶測(おくそく)した。
特別な印象も残らず興味もなかったので、その男性のことは私の記憶から完全に消え去っていた。
 
二度目に彼に会った瞬間、どこかで見かけたことがあると記憶を探り、すぐに思い出した。
ひろみさんのホームコンサートだ。
なーんだ、この男性がデイビットだったのか。もともと彼だと分かっていたら、こんな所まで出かけてこなかったのに、と正直そう思った。

というのは、私は昔から出不精だった。
旅に出るのは別として、買物はもちろん、外出するのが大嫌いだった。

その頃は家にこもって、三十代にヨーロッパを旅した時の旅行記を書き直していた。
内容は大した物ではないのだが、七年分の日記だから量がすごい。
気に入ったシャープペンシルを使って毎日手書きで書いていた。
それで書き直すだけでも何年もかかった。
この作業が終わるまで外出禁止と自分に言い聞かせていたから、友だちが誘ってきても一切出ていかなかった。
 
ひろみさんが電話をしてきた時は、たまたま一回目の下書きが終わった時だった。
ブラインドデイトは興味がないし外出も面倒臭い。
いつもなら体よく断るのだが、久しぶりに一息ついたところだったので、
「じゃあ、気分転換に彼女が紹介してくれるデイビットとやらいう男性とコンサートにでも出かけてみるか」と、珍しくオーケーした。

2月14日、約束の時間に日本レストランに行ってみると、彼は既にテーブルについて待っていた。
後で分かったことだが、彼は約束の時間には決して遅れたことのない人だった。

ミルク瓶の底のような眼鏡をかけて、笑うと歯並びの悪い前歯が覗いている。
実を言うと、私もコンタクトレンズを付けているので他人には分からないが、すごい近眼で、それに二十代後半に歯の矯正をした。
それで初めて人に会うと、まず相手の目、そして歯に自然と目がいってしまうのだ。

背は高いが、まるでそれを遠慮しているかのように前かがみになって「節子さんですね」と差し出してきた手は、一度も陽に当たったことのないもやしのような白い手をしている。

明らかに、小麦色の肌をしたカリフォルニアのビーチボーイではない「本の虫」タイプの男性がそこにいた。

初めてのデイトの日がバレンタインデーとはなかなかロマンチックだが、最初会った時から、彼にはそんな気持ちは湧かず、むしろ絶対安全な友だちと食事をしているという感じだった。

食事の後コンサートに行ったが、演奏中、彼が横に座っているのを忘れてしまう。
彼も私が座っているのを意識しているのかどうか分からない。
一曲終わるごとに会場が明るくなって隣を見ると座っていたという具合だ。
それほど彼は異性というものを意識させない存在感のない男性だった。
 
彼の職業はビデオエディター。
どう見ても社交的でない彼にはこういう縁の下の力持ち的な、人前に出ない仕事が性分に合っているようだ。

世界各地の貧しい子供たちやアメリカの癌(がん)の子供たちを助ける募金運動のテレビ番組を作っているという。
ハリウッドの小さなプロダクションに勤めていて、プロジェクトがある時だけ働くというから、収入が安定している訳ではないらしい。

ひろみさんが電話で「無口な人よ」とふたりの会話が続くかどうか心配していたが、確かに口数は少ないが、全然喋らないという訳ではない。
自分の好きな話題ならば、喜んで話した。
  
案の定、彼は本が大好きだった。
一般のベストセラーには興味がなく、日本の近代純文学が好きだという。

夏目漱石、川端康成、谷崎潤一郎、遠藤周作はもちろん、私が一度も読んだことのない大江健三郎、安部公房といった作家の名前が次々に出てきた。

こういう日本人作家の作品が英訳されていることなど知らなかったので驚いてしまった。
日本語は大学で学んで基礎知識はあるが、喋ったり読んだりするのはダメ。
喋るのが苦手な彼は語学よりも文学が好きらしい。 
 
私も彼の読んだ本を読んでいたら、もう少し深く話せたのだが、あいにく殆ど読んでいない。本に関してはそれ以上話が発展しなかった。

その代わり、たまたま二人とも共通の話題があって、そちらの方の話が弾んだ。
彼は私より四歳年上で、通った時期は違うが、同じ南カリフォルニア大学のシネマ科の出だった。
だから話が合うのは当然だった。
が、これにも限りがあった。
  
私がシネマを学ぶために留学したと言ったので、当然私も映画好きでこの方面には詳しいと期待したらしいが、それは見当違いだった。

私も一応シネマを学んだが、全くモノにならなかった。
映画制作に必要な才能も体力もないし、第一プロの映画人になるほど、この分野にすごい情熱や興味を持っている訳ではなかった。

でもそれが分ったのは、苦労してアメリカまでやってきて、実際大学で五年間もシネマを勉強した後だった。

それで三十代は日系企業で働いた。
生活費と旅費を稼ぐのが目的で、もともと好きな分野の仕事ではないから、九ヶ月ほど働いては辞めの繰り返しを続け、その間旅ばかりしていた。

デイビットに出会った時は四十二歳だった。
その頃は自分に向かない会社勤めは完全に辞めて、家庭教師などをして生活していた。そして二十代に夢みていた映画作りなどとっくの昔に忘れていた。

食事中、彼は日本映画の題名を次々と挙げたがピンとこなかった。
山田洋次監督の『寅さん』シリーズは全部観ていると言った。
純情でお人好しでいつも振られ役の主人公が、自分と似ているところがあり共感を覚えると、照れくさそうに笑いながら話した。

彼が一番尊敬する監督は『おはよう』や『東京物語』を作った小津安二郎監督。
他の監督の名前が次々に出てきたが、彼らの映画は一本も観たことがなかった。
日本人でしかもシネマ専攻だといっても、何一つ日本映画について語れない。自分の日本文化に対する無知をさらけ出しているようだった。
 
彼は1984年に初めて日本に行った時の話をしてくれた。
その時、鎌倉の小津監督の墓に参って、墓の周りに敷きつめられていた小石を一つ拾ってきて、それを今でも大切に持っていると真顔で語ってくれた。

それを聞いて私は腹を抱えて笑ってしまった。
たかが小石の一つを自分の宝物として大切に持っている人がいる。
まるで小さな子供のように。
しかも四十歳をとっくに過ぎているというのに。
こんな人に出会ったのは初めてだった。

私は感心するより彼の独特な純粋さにひどく戸惑いを覚えた。
後で分かったことだが、彼はいわゆる世間で価値のあるものには全く無頓着で、自分の興味のあるものだけを大切にしている人だった。


3 デイトの後のこと   1987年2月

デイトをした数日後、デイビットからの電話を待っていた。
彼に興味を持った訳ではないのだが、普通デイトをした二、三日後には相手から電話がかかってくるものだ。

それに一つ気になることがあった。
あの晩、食事とコンサートに誘ってくれたお礼に、ロダン美術館で写した写真を額に入れて彼に上げた。
その場で包みを開けるかと思ったが開けなかった。
家に帰って必ず開けて見たはずなのに何も言ってこない。
彼はアートが好きで、毎月美術館に行くと言っていた。
いつも世界のトップレベルのアーティストの作品に見馴れていて、アマチュアの作品はちょっとも嬉しくなかったに違いない。
それだから電話がこないのだろうと思って少々がっかりした。

それから何日も連絡がないので、彼のことも写真のこともさほど気にならなくなって、完全に忘れてしまった。

そんなある日のこと、聞き覚えのないか細い声の男性から電話がかかってきた。
「セツ子さん、デイビットですが」

突然そう言われても、誰のことだかピンとこない。
デイビット?
え? 
デイビットって誰だったっけ? 

声と名前が結びつかず、一瞬考え込む。
ああ、そうだ! 
あのデイビットだ。
私がすっかり忘れかけた頃、やっと電話をかけてきた。
話の様子から、私や写真が気に入らなかった訳ではなく、ただテンポも反応もひどくのろい人らしい。

これも後で分かったことだが、彼は「好きなこと以外はぜんぶ明日にしよう」というモットーを持って生きている人だった。
だから明日になったら、また明日と、自分にとって大切でないと思われることは延ばせるだけ延ばした。
彼の性格や価値観、それに自分の体力の限界から出てきたモットーらしい。

私の母は人一倍せっかちな人で、「今日できることは、今日のうちにやってしまいなさい」
と、小さい時から教え込まれていたから、彼の超スローテンポには驚いてしまった。
  
遅まきながらも彼から電話があった時、私は早速その週末にランチに招待した。
一日でも早く会いたいという気持ちからではなくて、何でも「すぐにやらなくては気が済まない」せっかちな性格からその週末を選んだ。
彼は絶対安全な人に見えたので、一緒に食事をしながら話をしましょうと軽い気持ちで誘った。

ただ最後に一言、「私の所に来たら、驚かないでね」と、付け加えた。
実は私のアパートときたら、足の踏み場もないほど色々な飾りや観葉植物が置かれていた。
壁には油絵や水彩画、旅先で撮った写真、それに飾り皿など所狭しと掛けてあって、一分として元の白壁が見えるスペースはなかった。
それで一言、警告しておいた方がよいだろうと思ったからだ。


4 ランチに招待する   1987年2月21日
                 
2月のある暖かい土曜日の午後、デイビットはやや古ぼけたコーデロイの上着を着てやって来た。

「いらっしゃい」と、陽気にドアを開けると、猫背で遠慮気味にポーチに立っている姿は、どうみても異性にランチに誘われて飛んで来た姿とはほど遠い。
投げたボールが窓ガラスを割って謝りにでもきたように申し訳なさそうに立っていた。

「どうぞ」と誘い入れると
「お邪魔します」と靴を脱ぎ、恐る恐る中に入って入口で、しばらく無言で突っ立っている。

ひどく混んだ部屋を一目見て驚いたのかと、横から彼の反応を伺うがそうでもなさそうだ。
しばらくの間、一言も言葉が発せられない。

とうとう私の方がしびれを切らして、
「どうぞもっと中にお入りなさい」
と勧めると、少し安心したらしくそろりそろりと部屋の中央に向かって歩きだした。
と、突然大きな体をかがめて、窓際に置いてある二脚の椅子の下を用心深く覗き込み始めた。

彼のこのしぐさに完全に戸惑(とまど)って、
「一体何を探しているのですか?」と聞くと、
「何か爬虫類でもペットに飼っているのかと思って」と、真顔で答えた。

なーんだ。
それでびくびくしていたのか。
「いない」と、答えるとやっと安心したらしく、今度は
「猫がいると言っていなかったですか? どこにいるのですか?」と聞いてきた。

先日の電話でそんなことまで言ったかな? 
ソファーの横に置いてある三匹の瀬戸物の白い猫を指さしたら、ひどくがっかりした様子をみせた。

「僕の所には本物の猫がいますよ」と、嬉しそうに言った。
この時初めて彼に猫がいることを知らされた。

「名前は?」
「モルティモア」
「え?」
こんな変わった猫の名前を聞いたのは初めてだった。
「モルティモア?」と、彼の後を真似して言ってみたが、発音には全く自信がなかった。
  
それから彼は部屋の飾りなど気にせず、悠然(ゆうぜん)と構えてソファーに腰かけ、私の接待を待っていた。
彼の持つ雰囲気は華やいだ独身女性の部屋とは何だかそぐわないのだが、そんなことも一向に構わない様子だった。

これも後で分かったことだが、彼は自分の興味のある物だけしか目に入らない人だった。
だから私の部屋に入っても、細々した飾りなど一切気にならなかったのだ。
 
その日色々と話をして彼の意外な面をいくつも発見した。
もちろん自分から話してくれた訳ではなく、好奇心の強い私が、記者のように次々と質問したのに正直に答えてくれたのだが。
 
彼はずっと独身なのかと思ったら、大学時代に同じ大学のロシア語科の女性と結婚したらしい。
うまくいかずに五年後に離婚したという。
この時の話は後になって聞いても決して話してくれないから、詳しい事情は分からない。

若い頃結婚してすぐ別れるという話はよくある話なので、別に驚かないのだが、その後彼は特定なガールフレンドが一人もいなかったと話してくれた。
これは私の余計な詮索(せんさく)だが、その間ずっと女性関係がなかったということらしい。

私は今まで「男は皆狼だ」と教えられていたから、彼の話を聞いて驚いてしまった。
実はアメリカに来て二年目、こちらの生活に不慣れな時に命を落としそうな怖い目に遭ったことがある。
女性なら痴漢(ちかん)やセクハラを含めて嫌な男から不愉快な思いをさせられた経験が一つや二つは必ずあるはずだ。

ところがデイビットときたら控え目で自制心が強く、男っ気が全く感じられない。
異性にもてる「セクシー」という代名詞は、彼のどこを探しても見当たらなかった。
  
彼の年代の人たちはベトナム戦争中に多感な二十代、三十代を過ごしている。
それで彼はその当時のアメリカ政策にとても批判的だった。

広島や長崎の原爆投下や日系人の強制収容、ビキニ島の水爆実験など、すべて非人道的な政策には怒りを感じているようだった。
こんな話にまで発展するデイトの相手は初めてだった。

外見も目立たず性格は極めて消極的。
趣味も好みも特殊。
思想は少数派。
これだけ条件が揃うと、長年特定のガールフレンドがいないというのも頷けた。


5 ディズニーランドに行く   1987年2月25日
        
私たちは家族連れで二回デイトをした。
デイビットの幼馴染みのブライアンが家族連れでロス・アンジェルスを訪れた。
その時一緒にディズニーランドに遊びにいった。

ブライアンは彼と同じウィスコンシン州のジェーンズビルという町の出身だった。
小さい時から映画好きで、ふたりでよく連れ立って田舎町の映画館に通っていたらしい。

高校卒業後、彼はロンドンのフィルムスクールに留学した。
在学中にアメリカ政府からベトナム戦争の兵役義務の通知を受け取ったが、その義務を拒否したため、やむなくアメリカ国籍を放棄し英国に帰化した。
その後、英国在住のイラン女性と結婚し二児をもうけた。
兵役義務を拒否したために十五年間もアメリカ入国を拒否され、今回初めて許可が下りて、久しぶりにアメリカの土を踏んだらしい。
 
一方、デイビットもベトナム戦争には行かなかった。
身体検査の結果、胃酸カタルとか食道気管支障害とかいう病名を与えられて兵役をまぬがれることができた。
しかしもし仮にパスしたとしても、戦争には参加せず国外追放されても潔(いさぎよ)く国を捨てる覚悟でいたらしい。

ふたりとも完全な戦争反対、平和主義者で、アメリカの場合、自分の主義主張を選ぶと国を捨てる場合も出てくる。
 
その日はデイビットが私を迎えに来て、私の家からディズニーランドに行く予定になっていた。
ところが約束の時間になって、車が動かないと電話がかかってきた。
折角のデイトの日に車が動かなくなってと思ったが、怒っても仕方がない。
私の方から彼を迎えにいくことになった。

彼の借家は、ダウンタウンの多民族が入り込んで住んでいる低所得者住宅地の中にあった。
彼は借家の向かいの道路に立って、ずいぶん前から待っていたようだった。
この前着てきた古ぼけた茶色いコーデロイの上着に、これまた古びた黒い小さなバックを片手に持っていた。

後で分かったのだが、彼は上着を二着しか持っていなくて、肩の部分に皮のパッチが付いているやや上等の上着は最初のデイトの時に着ただけだった。
髪の毛は首の辺りまでくるくると伸びて、頭のてっぺんがはげていてくっきりコントラストを見せている。

坂道を登り切り、車のウインドー越しに彼の姿を見たら、明治初期に長い船旅の後、日本に初めて上陸した小泉八雲の写真を思い出した。

古い山高帽子に着古した上下のスーツ、ドタ靴に片手に風呂敷を抱えた、疲れた中年男の後ろ姿が横浜の埠頭に見える。
八雲は左目が失明。
デイビットもひどく目が悪い。
どう見てもその日の彼はこれからデイトに行くのではなく、長旅で疲れ切った八雲の下船姿にそっくりだった。
 
やっとディズニーランドに着いて、ブライアンの家族を紹介された。
園内に入って、デイビットが一番最初に足を止めた所は、縫いぐるみの人形を売っている店だった。
窓一杯にピンクや黄色のうさぎや熊の人形が飾られたショーウインドーを、ブライアンの子供たちと一緒に一生懸命覗き込んでいる彼の後ろ姿に、私は何だか奇妙な光景を見ている気がした。

彼は小さな子供がいる父親でもなく独身の中年男だ。
それなのにこれから自分が縫いぐるみの買物でもするような真剣さで見ている。

そしてバンビの縫いぐるみを見つけて、
「バンビの映画を見ると、必ず泣けてくる」と、言ったのでますます首を傾げてしまった。

私たちはいくつか乗物に乗った。
乗っている間、彼は幼い子供のように夢中になって、横に座っている私のことなどすっかり忘れてしまっているようだった。

こんな気のきかないデイトの相手は初めてだった。
ただどうした訳か、不快感はなく全然気を使わなくていい人だった。
それで一緒に行動していて至って気が楽だった。